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チャールズ2世 (イングランド王) : ミニ英和和英辞書
チャールズ2世 (イングランド王)[ちゃーるず2せい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 

チャールズ2世 (イングランド王) : ウィキペディア日本語版
チャールズ2世 (イングランド王)[ちゃーるず2せい]

チャールズ2世Charles II, 1630年5月29日 - 1685年2月6日)は、王政復古ステュアート朝イングランドスコットランドアイルランドの王(在位:1660年5月29日 - 1685年2月6日〔イギリスの法令集である、 ''Statutes of the Re''alm,Vol.5,Lawsons,1963.においてはチャールズ2世の治世開始年を実際の治世開始年である1660年ではなく、亡命年である1649年から起算しているので、注意を要する。〕)。
== 生涯 ==

=== 大陸へ亡命 ===
1630年、チャールズ1世と王妃でフランスアンリ4世の娘ヘンリエッタ・マリアの次男として生まれた。兄は幼くして亡くなったので、実質的な嫡男だった。弟にジェームズ2世、妹にオランダ総督オラニエ公ウィレム2世メアリー・ヘンリエッタオルレアン公フィリップ1世ヘンリエッタ・アンがいる。フランス王ルイ14世は母方の従弟で、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世は甥に当たる。
ピューリタン革命の危険が高まったため、1646年に母たちとフランスに亡命し、1648年に義弟のウィレム2世を頼ってオランダハーグに住んだ。同年に父方の従兄のカンバーランド公ルパートと共にオランダから艦隊に乗り込み出航したが、具体的な目的が定まらないまま撤退、翌1649年1月30日、イングランドを離れなかった父は処刑され、イングランドは護国卿オリヴァー・クロムウェルらが指導する共和国となった。同年にイングランド共和国と接近していったオランダ連邦議会の圧力でフランスへ移っている。
革命に反対するスコットランドは1649年2月5日、チャールズをスコットランド王として推戴すると宣言したため、6月にスコットランドに上陸、1651年1月1日スクーンで正式に戴冠式を挙げた。しかし、同年にスコットランドへ侵攻してきたクロムウェル軍に敗れ()、再び大陸に亡命した。1654年に(1652年 - 1654年、英蘭戦争も参照)で争っていたイングランド共和国とオランダがウェストミンスター条約を締結、和睦条件の一つとしてステュアート家へのオラニエ=ナッサウ家の援助を断つ点が盛り込まれ、チャールズに援助していた妹メアリーが1654年から1657年の3年間オランダ国内から退去させられ、1650年のウィレム2世死去と合わせてチャールズにとって打撃となった。フランスもスペインの戦争()でイングランド共和国に近付くことを考えたため、チャールズはフランスを去ってドイツケルンに亡命宮廷を構えた。
1656年にはスペインと同盟を結び、スペイン領ネーデルラントブリュージュへ宮廷を移し、後にブリュッセルに移動した。1659年のフランスとスペインの講和条約であるピレネー条約に加わろうとしたが失敗、フランスは共和国との同盟を継続、スペインも関心がポルトガル王政復古戦争の鎮圧へ移ったため、王位復帰の可能性は途切れたままであった〔友清、P5 - P14、P22 - P25、P28 - P40。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「チャールズ2世 (イングランド王)」の詳細全文を読む




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